「一切合財世も末だ」を知らない人は、聞くがよい


ちょっとした興味がきっかけで観に行った映画で、大変に衝撃というか影響を受けることがあります。人それぞれストライクゾーンは限られていて、私の場合も然りなのですが、それにしても今回知った作品は、「なぜこの数十年素通りしてきたのか?なぜ知らなかったのか?」ということを、あらためて思い知らされる出来事でした。そこら辺の話を、今日は綴ります。

いや実際、ブログの存在意義というか、「なんで文章を書くのか?」とか「思いを吐き出してすっきりするからか?」とか「文字を書くのが好きだからか?」とか、もやもやしたところがあったのですが、そのもやもやに終止符が打たれた、という事実だけでも、相当大きな衝撃でした。

 

「どこへ出しても恥かしい人」という映画

それは、映画のタイトルが、なんとも思い当たるところがあったことがきっかけでした。映画のタイトルが「どこへ出しても恥かしい人」だったのです。このご時世、ギミック狙いというか炎上狙いで、いかにもそれらしいキーワードが氾濫している、という感覚はあったものの、はるか昔に読んだ文豪太宰治の小説「人間失格」の冒頭の文章、「恥の多い人生を送ってきました」に大いに共感を覚えた身としては、なんとなく引っかかって、放置したままにすることができなくなるに十分な「つかみ」でした。

映画は時間にして1時間余り、内容は歌手にして画家、競輪評論家でもあるという友川カズキというアーティストのドキュメンタリーだったのですが、私は氏の人となりや作品には、全然触れずに今まで過ごしてきたのでほぼ初コンタクトであり、かなりビビらされました。友川カズキ氏の略歴は、以下wikiに記載されています。映画の予告編も貼っておきます。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8B%E5%B7%9D%E3%82%AB%E3%82%BA%E3%82%AD

 

「友川かずき」 文:大島 渚

 

友川かずきのうたがCDで出るという。なんと喜ばしいことだろう。


普通、歌は世につれ世は歌につれという。サルトルは、作家は時代を抱きしめなければならないといった。表現する者はどこかで世の中と寝なければならないのだ。だが、友川は一度も世の中と寝たことがない。
東北はどうして日本人の魂のふるさとであるがごとくあるのか、ありとある日本人起源説は南かせいぜい西北を指しているのに、なぜか東北の地は日本人になつかしい。そして東北の生んだ詩人たちはなつかしさを求めて実はそのなつかしさを日本の中央といわれるところへ運んできた。私の友人に限っていえば、寺山修司、三上寛、長谷部日出雄、いずれもそのなつかしさをキーとして、テレながら世の中と寝た。ひとり友川かずきは寝ようとしない。

限りない激しさと限りない優しさが友川のうたの中に同居している。限りなく繊細な詩のことばと限りなく露骨な日常のことばが友川のうたの中に同居している。東北の詩人たちは限りなく世の中に拗ねてみせるが、また時に限りなく甘えてみせる。友川にはその両方がない。友川はテレ笑いをするということがない。そのことが世の中をとまどわせる。友川のあの大きな目で見つめられ問いかけられたとき人々がとまどうように世の中はとまどう。そうだ、あれは目というべきものではない。目玉なのである。誰しもがとまどう。ルドンの目玉にとまどうように。

だからといって一本気なのではない。一本気なのは三上寛だ。長谷部日出雄ももちろんである。寺山だって結局は一本気だった。真っ白な絹のマフラーを首にまいて大船撮影所にあらわれた日から、カンヌで私に「商業映画を撮っちゃいけないぞ」などと説教する日まで、すくなくとも私の前では終始一本気だった。友川はむしろムラ気である。彼の才能が一本気にさせないのである。友川はうたであり、うたが人間になったのが友川であるけれど、彼はうたにすら時として執着していないのではないか。画をかくことも、料理をつくることも、酒をのむことも、芝居にかかわってガヤガヤやることも、うたと同じくらい大事であり、うたと同じくらいいい加減なのだ。ただただ彼は愛しているのであり、愛していることの効果や結果は問題でないのだ。

友川かずきのうたが胸にしみいるとしたら、君は幸せだと思え。君にもまだ無償の愛に感応する心が残っていたのだ。無償の愛がまだこの人の世に存在すること、それこそが友川が身をもってあがない、あかししてくれたことなのだ。

友川よ、久しく会わないが、元気か。美貌にかげりはないか。酒量は落ちないか。私は君がよき友人たちにめぐまれていることを知っている。その数は世の中の人の数よりは少ないが、1人の男が持つ水準をこえることはるかであることを知っている。 (『初期傑作集』(1989)寄稿文より引用  大島 渚 (映画監督)

 

つかみは映画タイトル、そしてドキュメンタリーの主人公である友川カズキ氏の、アーティストとしての、そしてギャンブラーとしての凄みを感じた、元々ミュージシャン指向だが無能な消費者となり果て、なおかつサラリーマン小博打三昧で小市民の私は、映画に続いてYOUTUBEで彼の過去の楽曲にも触れてみたのです。そしたらこれが。これが凄い。なんでこれほど凄いと感じたのか。十代の頃に聞いたとしても、今ほど衝撃を受けたか否かはわかりませんが、それにしても凄い。パンクだ。これはいったいどこから来てるんだ?

そういえば映画の中で、遠藤ミチロウ氏の曲を「金のために」といって歌っているシーンがあったのですが、日本で言われているところの「パンク」と、何か通底しているところがあるのか?謎は謎を呼ぶばかりです。(そういえばパンクの代名詞であるセックスピストルズの再結成について、ボーカルのジョンライドンが「金のためだ」とはっきり言っている様は、当時パンク好き界隈でも賛否両論あったのですが、私は「この言い草こそパンクや」と思った派です)

 

「一切合財世も末だ」が凄いことを伝えたい

私は数十年来パンクというジャンルが好きで、その縁でアバンギャルドなフォーク系アーティストとして三上寛というアーティストの作品は何度か聞いてはいたのですが、友川カズキというアーティストについては、名前くらいしか知らず、「フォークの人」くらいに思っていました(wikiによると1950年生まれとのことですので、まさにフォーク全盛の時代のアーティストではあります)。

ところがYOUTUBEで見た、というか見て聴いた「一切合切世も末だ」という曲は、それはそれは凄かったのです。ボーカルの迫力も然り、バンドの演奏(バイオリンも入っているが全然違和感がない)も然り。「なんなんだこれは」という、ちょっと形容しがたいものでした。しかし、混乱しながらもこの曲は「人間の本質的なところを歌っているに違いない、これは魂の叫びに違いない」、という感触は得ました。

この感触の原因を考えてみると、まず日本のパンクの祖のひとつといわれているロックバンド、頭脳警察のメンバーが映画に出演されていて、そこから否応なしにパンク感というか少数派感を感じましたし、さらに競輪を舞台にして、ギャンブラーとしての氏の側面も映画で存分に活写されていて、アウトローであるが故に「忖度知らず、本音、魂の叫び、むき出しの言葉」であったからこそ、何か得体のしれない衝動を覚えたのだ、と思います。

うまく説明できなくて歯がゆい、歯がゆいのですがしかし、友川カズキというアーティストと彼の作品は、これからもずっと残っていくべき作品というか、残さないといけない作品なのではないか、という使命感に似た感情が、彼の映画や作品に触れた私からにょきにょき出てきたのは事実です(なんだかこの「にょきにょき」感覚は、年食ってから実感として認識できるようになった気がします)。

ということで、友川カズキ氏の映画を、見ていない方は一度見てみるのをお勧めします。曲を聴いていない方は、曲を聴いてみることをお勧めします。こういった「後世に残すべき何か」を伝えることこそが、人がしゃべったり文章を書いたりする、本質的な理由ではないか、と思った次第です。「一切合財世も末だ」を知らない人は、聞くがよい。