「人間の良心」と惑星ソラリス

「人間の良心」というものは、人間の個体自体が千差万別であることと連動して、「基本的に人それぞれ違うものだ」、と私は考えています。国籍や性別、人種、宗教の違い、健康状態、経済状態等々によって、それぞれが考える「人間の良心」は、違ってきて然り、と考えます。一方で「良心とは普遍的なものであり、説明しなくとも通じる部分もある」、とも感じています。

日本国内だけで考えても、「良心の問題」についての共通見解という意味では、未だに大枠としての結論に至っていない状況ですし、近年グローバル化とかボーダーレス化というキーワードも一般化してきていて、議論が収束する気配は一向に感じられず、もはや状況はカオスとしかいいようがありません。「人間の良心」という問題は、つきつめれば個々人の価値観の問題、心も持ち方、さらには国家や世界や地球や宇宙が存在する目的、という非常に大きなところに突き当たるので、日本や世界や宇宙の、すべての人間が全く同じ「良心」を共有することなど、未来永劫ないのかもしれません。

ところでこの「人間の良心」という問題は、いうまでもなく大昔から普遍的なテーマとして多くの様々な立場の人々が、答えを模索し続けてきているのですが、おそらくどこまで行っても全人類が「すとーん」と腹落ちするような解は、得られることはないでしょう。なぜならば、目的は違いますし、文化も価値観も多種多様すぎるからです。実際、衝突も絶えませんし、国家が細かく分かれて存在していることも、そういった背景があったことが原因であったのかもしれません。

そんな状況の中、あくまでも個人的な感覚として、なのですが、ウン万年かそれ以上の人類の歴史に比べたら一瞬でしかない、数十年程度の私の人生において、「人間の良心」の問題の本質に、かなり肉薄したのではないか、一瞬ですが本質に触れることができたのではないか、触れた後ずっと考えるきっかけを与えてくれたのではないか、と感じた映画の話をしたいと思います。それが「惑星ソラリス」です。

 

「人間の良心」が物体化するので、人によって違うものが出てくる

以前にも触れている映画「惑星ソラリス」ですが、1972年の旧ソ連の映画で、同じ時期にアメリカで「2001年宇宙の旅」が作られていることから、「2001年宇宙の旅に対する旧ソ連からの回答」、なんて紹介のされ方をしたりしていたのですが、実際には映画としてのテイスト、主題、訴求対象のユーザーも、かなり異なるのではないか、と個人的には感じています(実際「2001年」については、私は十数年に一回程度しか見ていないです)。

映画のストーリーは、ざっくりいえば「眠っている間に人間の思考を物体化する(と説明されている)謎の惑星について、研究者がいろんなアプローチで臨むものの、結論が出なくて主人公はじめ登場人物のほとんどが苦悩する、さらには物体化されて出てきた物質も、感情を持ち始めて苦悩する」というお話なのですが、人によってかなり取り方が異なりますし、断定的に「こうである」と言い切ることは憚れる内容です。事実関係はウィキに記載されていますので、気になった方はご覧ください。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%83%91%E6%98%9F%E3%82%BD%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%82%B9

この映画のユニークなところは、「惑星自体が何らかの意思を持っていて、惑星に触れた人間の思い(というか私は「良心」、と解釈しています)を物質化する」という設定を、SFの枠組みで示しつつ、人間の存在理由や思考や善悪、是非という、普遍的な問題について改めて考えるよう即している、という点です。その結果この作品は、見た人間がその後生きている間中、ずっと悩み続けることを強いる、ということに成功しています(少なくとも私はそうです)。

物質化される対象の人間の思いは、対象の一人の人間が「思う」ことですから、それはそれは大量に無限にあるわけなのですが、その中でも「もっとも痛いところ」をわざわざチョイスして物質化する、という設定にすることにより、人それぞれの「もっとも考えるべき何か」を認識させるという、なかなかできないことを実現しています。こう書いて、「あ、恋愛至上主義の人が、ハリウッド映画で号泣するというのは、恋愛至上主義であるが故だからかあ、あれがつまらんと思うのは、単に私の思考の優先順位的にもっとも考えるべき対象でないからかあ」と、ふと腑に落ちました(ちなみに2002年にアメリカで製作された「ソラリス」は、タルコフスキー版とはまったくの別物と考えていますが、あれはハリウッド恋愛映画のように個人的には思います)。

このあたり、この映画を初めて観たときは、「さすが超マニアックなSF作家(スタニスワム・レム)の原作やなー」と受け取っていたのですが、その後いろいろな評論や経緯に関する記事、監督であるアンドレイ・タルコフスキーのその他の作品に触れるにつれ、原作の意図するところと映画の監督が描こうとしたところは、必ずしも一致しなかったことも判明してきました。原作者と映画監督という、いわばプロジェクトの中心人物ですらそうなのに、一観客一個人、ただの凡人の観客である私が、「本来認識すべきテーマ」や「作品からの真のメッセージ」がわからない、というのはそもそも無理もない、というか芸術作品は受け取り手の評価も含めて是非というか存在理由は永遠に未完成であるよなあ、受け取った側もずっと考え続けることになるのよなあ、という、こういった堂々巡り的な思考によって些細な物事にすら何らかの意味を見出そうとする私には、とても意義のある作品です。

映画では、思いが物質化されるのは主人公だけではなく、ソラリス宇宙ステーションに居る科学者すべてに起こります。皆「痛いところ」が違うので、人によって違うものが物質化されます。しかも物質化された「思い」が強ければ、リセットしても何度も何度もあらわれます(あれ、このあたりは、殺しても殺しても何度でも生きて戻ってくるという「生きている小平治」や「ゾンビ」に近い?近くないか)。

さらに対象者の「痛いところ」の「思い」の強度と比例して「物質化された個体(映画の中では「お客」と呼ばれています)」、主人公に現れた個体の場合は「主人公の死んだ元妻」は、主人公と過ごすうちに諸々学習して(そもそも生い立ちが「主人公の思い」なのだから無理もない)、人間のような思考を始めます。主人公のお客であるハリー(10年前に自殺した主人公の妻)は、「よく考えてみると私は何年も前に死んでいるし、目の前にいる夫は苦悩している、ああ困った」と、真剣に悩み始めます。

しまいには「物質化された個体」であるにもかかわらず、意思を持って自殺しようとします(映画の中では実際に出血多量による死亡、さらに液体酸素で自殺します)。しかし、可哀そうなことに「物質化された個体=コピー商品(映画ではニュートリノ系でできている、と説明されています)」であるがゆえに、無慈悲に復活してしまいます。「人間の良心が物質化して思考を初めて苦悩して暴走する」という、へたなゾンビ映画やパンデミック映画よりも、深いところでエグみ、忘れえない残影を残します。このあたりの在り様が、まさに「人間の良心(とそれをめぐる逡巡)」、といったところなのです。

 

「人間の良心」はどこまでもついてまわる

さらに映画では、要所要所でバッハのBWV639(邦題「われ汝を呼ぶ、主イエス・キリストよ」)が流れて、このあたりも惑星ソラリスが物体化させている何かが、実は「人間の良心」なのではないか、と思わせる効果を生んでいます(そもそもBGMが少ない映画ですが、実際サントラ盤ではこの一曲を除き、ほぼ海の動く音だけという怪盤)。私は無神論者なのですが、それでも大変後ろめたいというか、いろいろな思いが走馬灯のようによみがえる、という、望んでもいないのに苦しい思いをしてしまいます。しかしそれでも何度も何度もこの映画を見てしまうのは、やはり突き詰めれば「人間の良心」というものに、望みを捨てていないからなのではないか、とも感じます。

同時に、個々人が感じる「人間の良心」というものは、どこまでいってもついてまわるものである、と考えざるをえません。「これが宗教か?」という感覚がないではないものの、なんでしょう、「良心」の本質は、実はまた違ったところに宿っている、という予感を感じないでもありません。案外「気にしていないこと」の中にこそ、本質的な「存在理由」みたいなものが潜んでいるのかもしれません。ソラリスの海がもし現実にあったら、私が思いもよらないもの、しかし本当の「痛いところ」を、物質化してくれるだろうなあ、と思います。しかしあまり見たくないような気もします。いやもうこのテーマは果てしない。果てしないので、また機会を改めて、コツコツ考察したいと思います。