「人間の良心」と惑星ソラリス

「人間の良心」というものは、人間自体が千差万別であることと連動して、「人それぞれ違うものだ」、と私は考えています。キリスト教や仏教、イスラム教といった、宗教の違いによっても「人間の良心」は違うでしょう。日本においても、長い間「良心の問題」について、いろいろな意見や見解、思いが出続けていて、未だに国として大枠としての結論に至っていないですし、片やグローバル化とかボーダーレス化というキーワードも一般化してきていて、収集する気配は一向に感じられず、もはや状況はカオスとしかいいようがありません。「人間の良心」という問題は、つきつめれば個々人の価値観の問題、心も持ち方というところに突き当たるので、日本の、世界の、すべての人々が全く同じ「良心」を共有することなど、未来永劫ないのかもしれません。

ところでこの「人間の良心」という問題は、いうまでもなく大昔から普遍的なテーマとして多くの様々な立場の人々が、答えを模索し続けてきているのですが、おそらくどこまで行っても全人類が「すとーん」と腹落ちするような解は、得られることはないでしょう。なので、あくまでも個人的な感覚として、なのですが、過去数十年の、人類の歴史に比べたら一瞬でしかない私の人生において、「人間の良心」の問題の本質に、かなり肉薄したことがあるのではないか、肉薄したのではないか、と感じた映画の話をしたいと思います。それが「惑星ソラリス」です。

 

「人間の良心」が物体化する

以前このブログで一度触れている映画「惑星ソラリス」ですが、1972年の旧ソ連の映画で、同じ時期にアメリカで「2001年宇宙の旅」が作られていることから、「2001年宇宙の旅に対するソ連の回答」、なんて紹介のされ方をしたりしていたのですが、実際映画としてのテイスト、主題、訴求対象のユーザーも、かなり異なるのではないか、と個人的には考えています。映画のストーリーは、いろいろなところで語られているのでここでは省略します(以下はウィキペディアのリンクですので、気になった方はご覧ください)。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%83%91%E6%98%9F%E3%82%BD%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%82%B9

この映画のユニークなところは、「惑星自体が何らかの意思を持っていて、惑星に触れた人間の思い(というか私は「良心」、と解釈しています)を物質化する」、という設定を作っている、という点です。物質化される対象の人間の思いは、対象の一人の人間が「思う」ことですから、それはそれは大量に無限にあるわけなのですが、その中でも「もっとも痛いところ」をわざわざチョイスして物質化する、という設定なのですね。このあたり、「さすが超マニアックなSF作家」というところですが、対象の人間は一人ではなく、その惑星に触れた人間(映画の中では数人の人間)それぞれに対応した「人間の良心」ともいうべき「痛いところ」を、わざわざざ物質化して見せるのです。それも何度も何度も。主人公の男性の場合、自分のミスで自殺に追い込んでしまった妻が、何度も何度も現れます。

そのうちその「物質化された個体(映画の中では「お客」と呼ばれています)」は、自分自身では物質化された対象の何かそのもの、主人公に現れた個体の場合は、自分が「主人公の死んだ元妻」である思い込むのですが、よく考えてみると「何年も前に死んでいる」し、目の前にいる「元夫」は苦悩しているし、しまいには「物質化された個体」であるにもかかわらず、意思を持って自殺しようとします(映画の中では実際に液体窒素で一回自殺しますが、可哀そうに「物質化された個体=コピー商品」であるがゆえに、無慈悲に復活してしまいます)。「人間の良心」が物体化して暴走する、という、へたなゾンビ映画やパンデミック映画よりも、深いところでエグみ、忘れえない残影を残します。このあたりの在り様が、まさに「人間の良心」、といったところなのです。

 

「個々人の良心」はどこまでもついてまわる

映画「惑星ソラリス」では、全編要所要所でバッハのBWV639(邦題「われ汝を呼ぶ、主イエス・キリストよ」)が流れていて、このあたりも「人間の良心」が「惑星ソラリス」が物体化させている何かが、実は「人間の良心」なのではないか、と思わせる効果を生んでいます。私は無神論者なのですが、それでも大変後ろめたいというか、いろいろな思いが走馬灯のようによみがえる、という、望んでもいないのに苦しい思いをしてしまいます。しかしそれでも何度も何度もこの映画を見てしまうのは、やはり突き詰めれば「人間の良心」というものに、望みを捨てていないからなのではないか、とも感じます。同時に、個々人が感じる「個々人の良心」というものは、どこまでいってもついてまわるものである、と考えざるをえません。「これが宗教か?」という感覚がないではないものの、なんでしょう、「良心」の本質は、実はまた違ったところに宿っている、という予感を感じないでもありません。案外「気にしていないこと」の中にこそ、本質的な「存在理由」みたいなものが潜んでいるのかもしれません。いやもうこのテーマは果てしない。果てしないので、また機会を改めて、こつこつ時間をかけて考察したいと思います。