不思議ちゃんは不思議ちゃんではない、クリエイティブだし同調圧力に屈しない

漫画家にしてエッセイスト、他にもさまざまな領域で素晴らしい才能を発揮された、さくらももこさんが亡くなった。氏の急死によって、「不思議ちゃん」的な「人間の持ち味」がにわかにクローズアップされている。「不思議ちゃん」というと、ゴスロリやコスプレの格好ををしていて、一見「あえて」通常とは異なったとんちんかんな言動を発する人種で、一般的には女子が多いとのパブリックイメージがあるようだが、さくらももこ氏を例にとると、自分はあくまでも彼女はいわゆる「不思議ちゃん」ではなく、通常の一般ピープル、いわばお客さん側の人々があからさまに避けて通ってきた「同調圧力の合法的かつ効果的な破壊」、もっといえば「同調圧力の地道な変革」に、おおいに寄与してきた人物であり、世直しというか「世の中の価値観の変革」にも、多大な貢献をしてきてくださった方だ、と考えている。

 

ビートたけしのオールナイトニッポンの存在

このあたりの事情について、競馬評論家の水上学先生が、興味深い話をされている。さくらももこ氏の世代のクリエイターは、「ビートたけしのオールナイトニッポン」などの深夜ラジオに影響をうけている、というのだ。いわゆる「不思議ちゃん」というのは、80年代あたりに深夜ラジオで発信されている雑多なサブカル情報を糧として生きてきた人に顕著な「やや変わった生き様、価値観」を指している、と思うのであるが、さくらももこ氏の場合、作品の舞台は昭和時代であり、一見「サザエさん」あたりと変わらないような、言ってみれば「日本を覆っていた不特定多数の空気感」を醸し出すことで、絶大な支持を得てきたようにも見えるのであるが、筆者の見方は少し異なる。

彼女は、なんらかの鬱積した思い、そこまでいかなくともメインストリームで展開されている「普通こうするでしょ、普通こう思うでしょ」とは若干ずれた感性を持って、日々を過ごしているように見える。たとえば主人公であるまるちゃんのしゃべり方。当時の小学生が、ややもするとおばさん然とした雰囲気が出てしまう「わたしゃ〇〇だよお」などといったしゃべくりを、あえて選択したとは思えないのである。「ちびまるこちゃん」の登場人物の人名も、当時既に人気漫画家として活躍していたさくらももこ氏におそらく影響をおよぼしたであろう、伝説の雑誌であるガロの影響が見え隠れする。

シュールな主題歌も然りで(さくらももこ氏の作詞によるものとのこと)、サザエさんの「おさかなくわえたどらねこ」が持つ予定調和的な詩のセンスと比較すると、なんともアバンギャルドである。全盛期のビートたけしの多彩でユニークなトークから、物事を多角的かつユーモアやブラックジョークを交えて捉えるセンス、さらには人情味のテイストをも吸収し、その結果、彼女にもともとあったと思われるサブカルテイストやたぐいまれな才能と融合し、あの独特の世界観が生まれたものではないか、と推測できるのである。

たぐいまれなユニークな存在であるさくらももこ氏を、「普通だけど時代を背景にした仇花」と考えるのは、間違いである。彼女がこれほどまでに多くの人々に愛されたのは、サブカルマインドを相当量もった価値観を持っていて、なおかつ一般的お客様的資本主義活動にもある程度の理解を示し、やれる範囲でそれなりに世間に対して「空気を読む」ことと「あえて読まない事」を混在させて、よりリアリティーのある空間を作り出した結果の出来事ではないか、と思うのである。

 

「蛭子 能収」的なテイスト

対比する対象として「蛭子 能収」という漫画家が存在していて、こちらは(見た目のほのぼのしたキャラクターに似合わず)ガロ直系の破滅型の重い題材が多いのであるが、さくらもももこ作品とも通じるテイスト、諦念や希望、葛藤などの感情が揺さぶられる読者は、少なくないのではないだろうか。なんというか、人間のダークサイドが一般人が許容できる形に汎化されて、さまざまなシーンやセリフからにじみ出ているような感じ、かつある程度本質的なメッセージが、観る側読む側に伝わっているような気がするのだ。これこそ自分としても目指したい世界であり、いったいどのようにもっていけばこの境地にたどりつくことができるのかは、日々精進していくほか道なはい、と考えているのである。

偉大な作家の早すぎる死には敬意と追悼の意をあらわしたい。どうかゆっくりなさってください。