「それっぽく振る舞うこと」の功罪

特定の現場に限らず、社会活動全般、いわゆる「仕事」や「コミュニケーション活動」における若手やベテラン、中間管理職、経営者、表現者、観客などのあらゆる階層や立場において、よくみられる「それっぽく振る舞う」という行為には、辟易させられる。人材育成や昇格試験の名のもとに取っているアクションや方向感、それにその方向感をあえて指示しているであろう中間管理職およびほとんどそのあたりに類する輩の思考やいい加減さは、大概である。

昔、かのパンクオリジネーターである、セックス・ピストルズのジョニー・ロットンが、初めて他のメンバーにあったときのことを自伝に書いていたが、確か「それっぽく振る舞っていてるだけ(で、多くの他者になんらか意義を与えるような、重要な発言や判断を意識的にしない)」といったニュアンスのことを話していたが、今自分が職場で体験しているのも、正にそんな感じである。ここでは、「それっぽく振る舞う」とはどういうことか、そして「それっぽく振る舞うこと」によって起こる弊害や功罪を考えてみる、明らかにしていく。

 

それっぽいの「それ」とは何か

「それっぽく振る舞う」という表現がぴったりはまるときの「それ」とは、つまり「とあるシチュエーションに対して、おそらく多くの人が抱くであろう一般的なイメージ」であると思われる。たとえば、前述のジョニー・ロットンとポール・クックやスティーブ・ジョーンズ(彼らはセックス・ピストルズの前身バンドのドラムとギター)は、やや柄の悪い、ぶっきらぼうでいて何か含みを持っていそうな「あいまいな態度と表情」をして、ジョニー・ロットンに対峙していたことが容易に想像できる。

「それっぽく振る舞うこと」は、その時点で既に「成果物主義」ではなく、「雰囲気主義」というか、コミュニケーションやチームビルディングを主眼に置いているように思えるのである。もしポール・クックやスティーブ・ジョーンズが、明確な成果物や、セックス・ピストルズとしての明確なゴール感や目的を持っていて、ジョニー・ロットンをチームメンバーとして本気でアサインしたいと思っていたならば、「それっぽく振る舞うこと」よりも、ビジョンや目的の共有を優先してアクションしたことだろう。「それっぽく振る舞うこと」は、なんだか「本気で自分で作り上げる」という意気込みの対極のアプローチに思える。

 

会社や職場の連中も同じ

これが日本のいわゆる「空気を読む文化」なのかもしれないが、なんとも片腹痛い。「それっぽく振る舞うこと」は、いわば高尚っぽい、それらしい言説やセオリーをリツイートしたり、リンクを貼って満足している様に似ている。そんなことをしても、なんら成果があがったり、本人のスキルや経験値が突然あがるわけでは全然ないのに、若手も中間管理職も、妙に悦に入っている。不快さしかない。

やはり不細工でも不器用でも、「実アクションとして自分でやってみる」に勝ることはない、と思う。かつ、「中間管理職」的な思考に陥らないよう、日々意識的に振る舞いたい。振る舞う。