「パンク侍、斬られて候」がなぜ究極のパンクなのか

「パンク侍、斬られて候」という映画、これはもう日本のパンク解釈の究極の到達点といいますか、70年代に欧米で生まれ、日本というアメリカやイギリスとは全く違う環境の中で、いくつもの独自解釈がなされて発展・継承されてきた「パンク」という概念に対する、究極の答えのひとつになりうる作品である、と断言しましょう。まあ賛美両論渦巻くことは容易に想像できるものの、それは後述するとして、「パンク侍、斬られて候」がなぜパンクなのか、どれくらいパンクなのかを説明していきます。

 

実績が示すパンクスピリット

どのへんがパンクなのか、なぜ究極のパンク解釈なのかについて、先に結論を言っちゃうと、「やってる人がめっさパンクやから」なんですけど、ただパンクなだけではなくて、「継続してパンクで居続けていること」も重要な要素なのです。

まず原作者の町田町蔵改め町田康さんは、知る人ぞ知る日本のパンクの第一人者であり、その後芥川賞作家になった傍ら、自らパンク歌手と名乗って、今もパンクバンドを継続していること自体がパンクです。氏のバンドは、必ずしも一般的なイメージでいうところのパンクロックバンドではありません、しかし、「汝我が民に非ズ」というバンドは、精神としてパンクを標榜していると私は確信しています。実際「305」や「つるつるの壺」は、今も演奏していますし。小説のカオスな世界は、数十年前に氏が歌詞で表現していた世界観と何ら変わっていません。

次に監督の石井聰亙改め石井岳龍さんが、もうパンク。70年代の「高校大パニック」、80年代の「狂い咲きサンダーロード」、「爆裂都市」、「逆噴射家族」など、初期の作品はそのユニークさとむき出し感がそのまんまパンクですし、「爆裂都市」に至っては、「パンク侍、斬られて候」の原作者である町田氏が出演していて、セリフなしで唸り声だけという、いかにもな一般的なパンクの解釈に、おもいっきり沿っています。

この初期の作品群で表現された、言ってみれば「一般的なイメージに忠実なパンク感」は、年を追う毎に、経験を重ねる毎に、変貌していきます。価値観も変貌してしまうと、もはやパンクからは離れてしまうのですが、石井監督の場合、パンクな価値観のまま経験と実績を積み重ねている(と思われる)ので、パンク感がワインやアンティークグッズのように熟成され、隠していても隠し切れない香りを放つようになってしまっています(賛辞です)。

それから永瀬正敏さんや浅野忠信さん、豊川悦司さん、あと脚本の宮藤官九郎さんなんかもそうで、昔から持っていた「パンクっぽさ」が熟成されて、疑いようもない「素のパンク」に見えます。

このあたりの感覚はもう、「とあるタイミングにパンクになって、経験値をあげて熟練したのではないか」と思えてなりません。もしかしたら「俳優として脚本家として、究極の域に近づいているから、価値観は違っていても、パンクにしか見えない」のかもしれませんが、それにしては同じ匂いのする監督や脚本家、俳優が集まりすぎです。

昔「サイバーパンク」というキーワードが世に出てきたとき、イメージ写真で「パンクの格好をしたモヒカンの老人」というのがあって、妙に説得力というか「パンクっぽさ」を感じたものですが、これは、パンクの人は早く亡くなる人も多い中、「長生きしてなおかつ同じ価値観を継続していること」を見た目から訴えているからだったと思っていますが、前述の方達からは、そういった「パンクなドメイン」を十分感じ取れるのです。

 

若手俳優もパンク

何もある程度年齢がいっている俳優だけがパンク、というものではなく、比較的若手の綾野剛さんや染谷将太さんにしても、十分にパンク感を出しています。

かつて町田氏が「爆裂都市」で演じていた「一般的なイメージに沿ったパンク」に近い部分はあるものの、「日本で一番悪い奴ら」や「さよなら歌舞伎町」、「三月のライオン」などを見た際に、彼らにうすうす感じていた「パンク感」が結実している感もありますので、仕事を選ぶときに「パンクな価値観」を発揮している可能性は十分にあります。このように考えると、パンクには年齢はあまり関係なく、仕事を選ぶときや、物事を測る際の物差しにもなりうるものである、といえそうです。

 

結局何がパンクなのか

この作品が「究極のパンクである理由」を説明しようとして、「それはやってる人がパンクだから」というのはあまりにも論理的ではないので、まとめがわりに「結局のところ何がパンクか」をあげてみますと、

①思考や行動の振り幅が大きく、その分自由度が高いこと、

②いい加減、テキトーであること、

③前述①②の特徴(悪く言うと「節操がない」)を持っていてかつ、意外にアクティブであること、

このあたりなのではないでしょうか。というか、人の数だけ存在している解釈を受け入れる、多様性を許容する、ということもパンクの特性のひとつであると考えているので、「これが正解」とも言い切れませんし、違うと思う方もいっぱいいると思いますが、まあ自分はこのように思います。

この作品の主題歌である「アナーキー・イン・ザ・UK」を歌っているジョニー・ロットン改めジョン・ライドン氏(なんか関係者に改名した人多いな)の自伝にも、似たような見解が述べられていたような気もします(彼は今も現役でPILで活動していますね。セックス・ピストルズやPIL再結成を含めて、節操がなくアクティブで、しぶとくエグいパンクです)。ジョン・ライドンで思い出しましたが、皮肉屋みたいな要素も、パンクにはあるかもしれません。「この作品自体が壮大な皮肉」、という解釈も可能な、非常に奥深い、いい作品です。

追記。虚構の中、最初の町田と最後の感覚ピエロが印象的。