原理主義と多様性と人間力

「原理主義」というキーワードを聞くと、日本では例えば「イスラム原理主義」とか「キリスト教原理主義」といったように、宗教的な意味合いで使われることが多いのですが、英語でいえば「ファンダメンタリズム」といいまして、簡単に言えば「聖典(自分の信じているやり方が、本やマニュアルで文字化、可視化されている書物、と解釈しましょう)に書かれていることを絶対的に信じて、日々の活動や思想にそのまま反映して日々生きる態度」、という意味になります。

一方で、ダーウィンに代表される、生物学的な観点での物言いには、「多様性こそが、種の存続の主たる源である」、といったものが多くみられることも、また事実です。原理主義的に物事を突き詰めることと、多様性を許容して生物学的な繁栄や経済的な成功を目指すこと、さらにそれらが並存する環境において、そこで生きる人間がとるべきスタンス、つまり「発揮すべき人間力」とは、どのようなものであるべきなのでしょうか。ここでは、原理主義と多様性と人間力について、考えていくことにします。

どちらかに加担することは正しいのか

原理主義を突き詰めると「周囲は皆同じ考え方であり、違った思想の存在がいたら改心させる、または抹殺する」といったところに行き着きます。中東とアメリカの問題や、欧州や中国などでの対立など、根底には原理主義的な問題があることも、少なくありません。かたや生き物の世界では、昆虫や鳥類、爬虫類、魚類、哺乳類、植物、そして人間など、多種多様な生き物が存在していて、地球全体の存続にも貢献しているように見えます。まあ実際には、多種多様な宗教や価値観を並存させながらこんにちの地球が成り立っている、という意味では、原理主義の世界と多様性の世界は、地球や生物の存続という意味では、なんら違わないようにも見えます。

もっと卑近な例でいれば、日本における政党制にしても然りです。原理主義と多様性、相容れないようで見えて、実は常に併存しているのです。そういった環境で取るべき個人的なスタンスとは、いったい何が正解なのでしょうか。直感的には、少なくとも経済的な理由でもない限り、「原理主義か多様性主義、どちらかに加担することがベターである」、とは(個人的には)考えられないのですが、どうでしょう。

結局「どうしたいか」に依存する

私が生業としているITプロジェクトにおける、PMBOKやプロジェクトマネジメント手法などでも、ややもすると原理主義的な側面が見え隠れすることがあります。ITプロジェクトの手法のひとつとして、例えばアジャイルという手法は、モノつくりという観点では、やや原理主義的な側面は少なく見えるものの、やり方を徹底すればするほど、いわゆる原理主義的な側面が、全面に出てきたりしがちです。ていうか、出まくります。

そうすると、その考え方に追従できない人は、改心するか退場するかしか選択肢がなくなるのですが(多くの会社員は、それで会社やプロジェクトを途中で辞めます)、多様性を許容しないことが原因で、企業や組織やプロジェクトが立ちいかなくなくなることも、逆に原理主義的に突き詰めることで、物事がうまくいくことも、またあり得ます。「個人としてどういったスタンスで臨むのがベターなのか」といいますと、結局のところ「本人がどうしたいか」、というところに帰結するのではないでしょうか。

こだわりを持つことは、集中力やモノつくりのエネルギーとして、非常に有効である、と思います。しかし、原理主義に走りすぎると、全体感としておかしな方向にいくリスクが高まりますし、かといってあまりにも自由気ままに多様性を許容しまくると、短期的な経済活動やプロジェクトなどの場合には、経済的に立ちいかなくなってしまうことも、十分ありえます。

「バランスの問題だよね」ということは簡単です。しかしながら、個人の感情や価値観は、そう簡単に妥協できるものではありませんし、ふらふらよろよろしていても、生きている実感を感じられないですし、参画しているプロジェクトや組織としても、成果が出やすくなるとも思えませんので、突き詰めればやはり「自分はどうしたいか」ということを、しっかり自覚して、なおかつ実践する、態度に出す、言動に出す、ということが、人間力なのではないか、と思う今日この頃です。

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