好き嫌いと時間軸と人間力

自分の考える「人間力」って、年齢も性別も職業も、それに社会的立場や趣味、さらには健康か病気か、金持ちか貧乏かもあまり関係なくて、むしろいろいろな立ち位置の人がそれぞれ思っていること、思うに至った経緯、ていうか経緯なんか何万通り、何百万通りもあるし、行き着く結論も星の数ほどあるでしょうが、そんなこんなをひっくるめて「もやっ」とした概念として存在しているのが人間力である、と思っているのです。

なおかつその「人間力」というもやもやしたものは、いまいまそれぞれの人が立っている場所、信じている場所、たまたま「いま依り掛かっている何か」であって、時間がたてばいとも簡単に揺らいだり、酒飲んだり寝不足になったりしたら変わってしまう可能性もあるもの、とも考えています。その得体のしれないものにはきっと、これまで培ってきた価値観や、その価値観が熟成されたり削減されたりするための時間軸、それにいまいま時点の好き嫌いも、おおいに影響しているのではないか、と考えています。あまりにも「もやっ」としたことを長々と書いてもしょうがないので、ここはシンプルに、人間力が「好き嫌い」と「時間軸」になんらか影響を受けているものなのかどうか、という切り口で、人間力を考えてみたいと思います。

 

好き嫌いって、本当に好き嫌いなのか?

人間力が「人間ならではの、なんらかの生産的なチカラ」であったとすると、好き嫌いという概念自体も、人間力のひとつとして捉えることができますが、しかし、「好き嫌い」というものは、そもそも本当に言葉通りの「好き」とか「嫌い」とか、そういう単純なものなのでしょうか。なんか違うような気がします。なぜならば、私自身、「好き」とか「嫌い」とか考える時には、ほぼ必ずなんらかの打算や妥協や計算、さらには非常に浅い(と自分自身が考えている)短絡的な思考や、意図的に望んで作り出したと思しき「感情」が、ついて回っているように思えるからです。

たとえば中高生のときの「好き」には「やりたい」が混ざっていますし、電車やバスでおじいさんやおばあさんに席を譲るときには「私はいい人」みたいな概念、えーなんでしょう、自意識や虚栄心、もっというと「偽善的な何か」みたいなものがセットのように見える、といいますか、自分にはそのように思えて仕方がないですし、結局のところ、一般的に人が口にする「好き」とか「嫌い」とかというものは、実は感情でも人間力でもなく、何かこう非常に打算的な、資本主義的な、利己的なものであるようにも思えます。

「好き」とか「嫌い」とかいう、一般的には「ピュアな感情」として捉えられているモノは、本当は存在していない可能性がある、と、なんとなく思えます。虫や動物のように、理由なしに子孫を作るとか守るとか死ぬとかできれば楽なんでしょうけれども、なんなんですかね。と、ここまで書いてみてふと気づきましたが、「悩むことこそが人間力」、なのかもしれません。

 

出した結論が次々と移り変わる舞台となる時間軸

好き嫌いの話の結論が出ていませんが、なんか果てしない感じもするのでとりあえずおいといて、いやそれではあまりにもアレなのでなんらか着地させます。そうですね、今日のところは「好き嫌いというものは、本人にも他人にも無意識なものに見えるが、実は大変意識的かつ打算的、経済活動的な概念であり、いまひとつ人間力っぽくない」、ということにしておきましょう。

で、続いて次の話題、「時間軸」についても考えていきます。時間軸については、なんといっても「時間を使って人間力というものは熟成されていって、経験値や視野の広さを生む」みたいな捉え方の人が多いのではないか、と思われますが、一方「とある人間力を発揮しようとした本人の気が変わる(いわゆる優柔不断な性格と自覚している人だと余計そう)余地を作り出す」、「酒や薬などの外的要因と並行して簡単に消費される(あとで激しく後悔したり、やったことの良し悪しに迷って、あれやこれやと逡巡する、というオチとワンセット)」という、人間力をイマイチ胡散臭く見せる要素のひとつっぽい雰囲気も醸し出しています。果たしてどっちなんでしょうか。

 

「実アクションに繋がった悩み」、または「他者のアクションのトリガーに成り得た悩み」が人間力?

実際、うんうん唸って出した結論があっさり覆ったり、さらっと出した答えをじっくり考えて熟成させたりひっくり返したりするために、時間軸という概念は必要だったりします。ということは、「人間力が何か」を考えるうえでの「時間軸」は、「好き嫌い」と同じように、「人間力が何か、という命題に対してせっかく出した答えを迷わせるための理由や要素でしかない」、とも考えられます。つまりこのふたつの要素は、悩みを悩みのまま終わらせるために用意された、いまいちイケてない舞台装置のようなもの、なのでしょうか。

猿が原始人になって、その後人間が、国や社会や宗教なんかを作り続けてかれこれ数千年(いやもっとかな)経っているのにこの体たらく。こんなもん、普通の経済活動だったら、会社が潰れてしまいます。それこそAIに結論出してもらった方が、合理的で良いようにも見えるのですが、そのへんに「人間力」の本質があるとすると、経済的合理的に考えれば、「結論出せへんのんやったら、すぐ死んだほうがまだ生産的や」、という結論に至ってしまう。それはあかんというか、身もフタもないので、結局のところ人間力というのは、「悩む」ことそのものと、「悩む」ことの後に続いているもの、なんでしょう、「好き嫌いや時間軸に多大に影響されてはいるものの、結果的に短期的な打ち手としての、なんらかのアクションに形を変えることができたもの」、もしくは「そのアクションを受け取った誰かが、アクションを始める動機となり得た情報」、なのかもしれません。当たり前ですがこの話題、簡単には完結できませんね。難しい。人間力研究所、まだまだ続きます。

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