満員電車に乗るのが嫌いな理由

私はほぼ毎日電車に乗る機会があるのですが、よっぽど急いでいるとか、めったにありませんが、なんとなく「無」になりたいとかのレアケースを除くと、「比較的空いている電車」にしか乗りません。基本的に乗り物類の利用はあまり好きではなく、中でも電車や飛行機は特にいけません。なんでなのか。この辺りから「結局私は何がしたいのか、なんで人間力とか言うのか」につながるような「何か」を掘り起こしてみたいと思います。

 

人と密着するストレス

私は特段人嫌いというわけではないと、少なくとも自分では思っています。実際人と話す、共同作業をおこなう、問題が起こったら利害関係者との調整の場を新たに設けてまで「複数の人と接する」という仕事を生業にしていまして、諸々ストレスは感じるものの、まあ耐えることができています。

しかし、満員電車はいただけない。満員の新幹線、ぎゅうぎゅう詰めで座席も小さい飛行機もまったく持って嫌いです。生業と何が違うのか。何が「嫌」と思わせるのか。まずは満員電車は「人と密着している」という事実が、日頃の仕事とは物理的に異なります。電車の車両の容積をはるかにこえた量の人間が車両に詰め込まれ、実際駅員さんがドア付近で文字通り人間を「押し込んで」います。「密着するストレス」は、コミュニケーションをとることよりも、私には堪えるのです。

 

コミュニケーションのない状態で密着しているのが不気味

昔から満員電車が嫌いではあったものの、小さいときは(そもそも混んでいる電車に乗る機会が少なかったこともあって)意識していなかったように記憶しています。思い返せば、昔見たYMOという日本のテクノバンドの「増殖」というミニアルバムジャケットのイメージが、物理的にも生理的にも満員電車嫌いの原点になっているのかもしれません。

ぎゅうぎゅうに人が並んでいるのにコミュニケーションしている様子はなく、お兄さんもお姉さんもおっさんもおばはんも、子供もおじいさんもおばあさんも、皆同じような顔つきで思い思いにさまざまな方向に目線を向けて、まるでぎゅうぎゅうの状態が「どうってことないよ」と言わんばかりにすましている。たまに苦悶の表情の人がいたり、ごくまれにやり場のない怒りを爆発させる人もいますが、おしなべていえばなんとも不気味な空間に思えてしまいます。

私の場合、例外的にライブハウスは混みあっていても平気ですが、立ち見の出るような映画館や、たくさんの人がぎゅうぎゅうに座っているホールコンサートや式典の類いも苦手です。物理的にぎゅうぎゅうなのが嫌いなことはともかく、本質的になぜ大量の人間には「不気味さ」がつきまとうのでしょうか。

 

正常なお客さんの群衆心理リスク

黙って集まる人間の集団につきまとう不気味さとは、個々の人間が何かをしでかすリスクよりも、結局のところ「正常で常識的なお客さんの群衆心理」が、不気味な雰囲気を構成しているのではないか、と思います。

冒頭で「なんとなく無になりたいときは満員電車に乗る」といいましたが、なんとなく「無」、というのは、逆にいえば流される気マンマン、「群衆心理諸出しで、あいつがやるから俺もやる、なんでもやりますうわべだけ、流行り廃りに敏感で(アナーキーのシティサーファーという曲の歌詞から引用)」という、なんとも気色の悪い雰囲気が醸し出されている、というのは考えすぎでしょうか。ともかく、日本の満員電車の正常なお客さんには、何とも言えない不気味な群衆心理リスクを私が覚えてしまうのは事実で、これからも乗ることはないでしょう。

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