ソラリスの海とネットの海と人間力

「惑星ソラリス」という映画があります。この映画は、1972年、当時の旧ソ連でアンドレイ・タルコフスキーという映画監督が発表した映画であり、一般的にはSF映画のカテゴリで取り扱われていて、同時代(1968年)のスタンリー・キューブリック監督のアメリカ映画「2001年宇宙の旅」と比較されたり、並べられたりすることの多い映画で、発表から数十年経った今も、コアなファンが途切れることなく一定数存在し続けているという作品です。

私も惑星ソラリスという映画が持つ奇跡的なユニーク性に惹かれ、長年に渡ってこの映画を何度も何度も見ているのですが、(正確には覚えていないのですが)確かテレビで深夜に吹き替え版が放送されていたものを見たのが最初だった、と記憶しています。この映画、一筋縄ではいかないようなテーマや主張を、重層的かつ波状的に、長尺でいくつも投げ掛けてくるという、なんとも不思議な構成を持つ映画で、何度見ても飽きません。飽きるどころか、いつも人間の本質、いわば「人間の芯のようなもの」について、重く深く考えさせられてしまいます。一方で、「眠くなる映画ランキング」では、常に上位にランクインしていますので、受け手の価値観や性格を選ぶ映画でもあります(あ、これはどんな映画でもそうか)。

思考と同化することと他者の存在

ストーリーの概要としては、消息を絶った宇宙ステーションの調査に派遣された主人公が、ソラリスの海と呼ばれる、惑星ソラリス全体を覆っているゼリー状の海に翻弄されるのですが、映画のラストではソラリスの海と同化するかのような選択をして、不穏な余韻を残しつつこの映画は終わります。近年アメリカでリメイク版が製作されていますが、舞台設定や登場人物などは、スタニスワム・レムの原作にある程度沿っているためほぼ同じなのですが、私にはまったく別物に感じられます。ソ連版では、ひとりの人間の思考や人間性、他者とのつながりの本質といった普遍的なテーマを、じっくりと、痛々しい感触と共に、深く考察するよう要求してきます。ハリウッド版が掲げている(と私は解釈しています)「愛」も、確かに普遍的なテーマではあるものの、ここではちょっと脇に置いておきます。

さまざまな悩みや迷いや喜び楽しみなどが、カオス状にこんがらがって脳の中をもて余しているひとりの普通の人間に対して、ソラリスの海は、その人の思いの中でもっともきつい、または興味のある、またはやましい、いやおそらく「その人が今死なないで存在しているもっとも重大な理由」を物質化して目の前に提示し、「思考と同化する」ということや、そのうえで「他者の存在を定義付ける」という解決策に対するアクションを要求しているように、私には思えるのです。

ネットの海とソラリスの海の類似性

自分自身が自覚している「何か」や、長きに渡って確信している「何か」とはまったく違う「本質的な存在理由」を、思いがけず示してくれる可能性がある、という意味では、ソラリスの海とネットの海は、類似性がありそうです。タルコフスキー監督が、意図して作り出した「想像上の未来」は、実は人間であるが故の普遍的な概念を、より具現化したものであり、なおかつ当研究所が追及している人間力そのものなのかもしれません。

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